緑屋が鈑金業を営み始めたのは昭和37年。まだまだ日本のクルマ社会の黎明期でした。その後、JAFの指定工場、道路公団の指定工場として成長し、長野のレッカー業の草分けとして着々と基盤を整えました。その背景を代表取締役である片山 哲夫氏はこう振り返ります。
「当時はレッカー車を作る企業はそれほどありませんでした。しかも、使い勝手の良いものではない。それならば、自分たちで作るしかないという考えで、レッカー車を作っていきました」。
「与えられた条件にできない」とは言いたくない。片山氏のそうした反骨精神と、プロフェッショナル魂に火が付き、いつしか長野のクルマ社会には欠かせぬ存在としての地位を確立していきました。
敷地内の中央に立っている倉。歴史が感じられる。
レッカー業のリーディングカンパニーである緑屋にも、時代の流れが襲った時期がありました。鈑金業の下請け扱い、値引き交渉等による採算悪化のため一度は鈑金業を諦めました。しかし鈑金業を復活させたいという若手社員の要望に応える形で2003年のカーコン加盟を機に、緑屋に鈑金業が復活しました。
「カーコンに加盟することによって飛び込みのお客様が増えました。現在は、月に30~40名平均です」と語るのは鈑金部長の城田 浩一氏。社長の片山氏がこう続けます。
「カーコンのお客様をリピーターにしたい。クルマのことは総合的におまかせいただける存在にならなくては意味がないと思うのです」。
高速道路のレッカー業大手としての地位はあるものの、顧客の顔が見えるサービス、そしてお客様のトータルカーライフを支えたいという意欲にカーコンはお役に立っているようです。
「カーコンのブランド力は大きいと思います。お客様に対してもそうですが、我々にも“時間の明確化”という概念を与えてくれました」と城田鈑金部長。より一層の業務拡大のため、新人育成に余念がありません。
2011年1月、緑屋となりのコンビニが閉鎖されたのを期に、コンビニ跡地をカーコンの修理ピットとして前面に押し出すことに。奥まった修理工場から、路面に面したスペースへとピット配置を転換することにより、今後はドライバーの認知度もより高まることが期待されています。
倉の中にはお客様から預かったタイヤが整然と並ぶ。
「私たちの願いは、顧客にカーコンの新技術、新サービス、ユニークな商品を提供し、お客様に喜んでお付き合いいただくことにあります」と語る片山社長。同時に緑屋にはレッカー業として培ってきたお客様との信頼関係という大きな武器があります。
「私たちのレッカー業は、24時間365日オープンしているという強みがあります。何かあった際、日頃つきあっている顔見知りがレスキューに来てくれるという安心感は代え難いものがあるのではないでしょうか?」と語る片山社長。同店では21名の社員が交代で作業にあたり、中央高速道の長野エリアを中心に精力的な仕事を続けています。
歴史と新しいことへのチャレンジ精神。そんなことを象徴するかのように、緑屋の敷地には古い倉があります。造り酒屋、材木屋、ガソリンスタンドと時代のニーズに合わせて成長していった同店の名残です。現在、その倉はお客様のタイヤ預かりスペースとして活躍しています。「夏は涼しく、冬は暖かい」特性を活かした創意工夫がここにもありました。
お客様との信頼関係をつなぐサービス。そして、今ある材料を創意工夫して使い切る緑屋スピリット。これがアグレッシブな活動を支える根本にあるような気がします。
片山社長はこう語ります。「私たちの世代は、仕事第一でした。自分たちの仕事は与えられるものではなく、創造するものだという考えが一般的です。そのための努力は当たり前。今の若い世代とはちょっとギャップは感じますが…」と笑います。
「倉のあるカーコンビニ倶楽部」が生み出す新しい価値観。カーコンビニ倶楽部本部と共に新しい時代を紡ぎたいという強い意志が感じられました。
取材:2011年07月14日